不便は便利?
機能が低いから役に立つ?
日頃、私達は、自分の能力に関して余り意識する事はありません。当たり前過ぎるからです。
進歩や進化は、不便だからこそ生じてきた一面もありそうです。例えば、私達の目を取り上げてみましょう。
目からの情報は膨大で、脳は全ての信号を処理しきれません。映画やテレビで物が動いて観えるのも、 この脳の処理能力の低さが原因です。
映画は写真を高速で次々と映しています。脳の処理能力が大変高かったとしたら、映画を高速で動く紙芝居としてしか認識できず、決して動画として楽しむ事はできないのです。
脳は、高速で映っては消えていく写真を一枚、一枚認識し、更に、写真と写真の間の何も写っていない部分まで覚えている余裕がないので、前の写真と次の写真を重ねてしまいます。
すると、脳は、日常生活の経験をそこに当てはめて、つじつまを取ろうとします。つまり、脳の「経験」からすれば、同じ物が、同時に違う形で存在する筈がなく、少し違うのはそれが動いているからだと結論してしまうのです。つまり、思い込んでしまう訳です。
便所の神様
昔話
トイレの神様と言う歌が流行りましたね。
多分、このトイレは便座シャワー付きの清潔なトイレだと思いますが、これは、トイレではなく、「便所」の神様に付いてのお話しです。
日本がこんなに豊かになったのは、そんな昔の事ではなく、ほんの30年くらい前迄は、今は洗練されたお洒落な街として有名な横浜市でさえ、田畠がそこらへんにあり、麦藁や稲藁を燃やす煙があちこちに立っていました。
40年前ともなると、トイレットペーパーなんてなくて、新聞紙を手の平位の大きさで四角く切って用足しに使い、お尻が新聞のインクで真っ黒なんて、ノンビリした時代でした。